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『どうしてまた新潟なの?新潟中越地震で思うこと』 |
7月16日AM10時13分頃、マグニチユード6.8、最大震度6強の地震が発生しました。
柏崎市、刈羽村などの中越地方を中心に県内全域を襲い、死者11人、負傷者1800人以上、1400棟を超える家屋の損壊、道路の崩壊、斜面の崩壊による鉄道の不通、等等。
一番心配された事は、原子力発電所の影響であったと思われます。建設当時の想定以上の揺れだったにも関わらず原子炉そのものは大事に至らず、その周辺の不備が多く指摘され、原発そのものの存続に問題を投げかけているようです。
16日は祝日でしたが私は一人会社でパソコンに向かっていました。
最初の揺れでその大きさを知り揺れが止まらないので、戸外へでました。駐車場の車も自分の足元も、鉄骨の建物は金属の軋み音がうるさくみんな揺れています。治まってから戻ってテレビを点け事の大きさを知りました。
どうして又新潟なの?瞬間思いました。
昭和39年6月16日PM1時2分新潟地震発生、マグニチュード7.5
平成16年10月23日PM5時56分新潟県中越地震発生 マグニチュード6.8
昭和以降3回目の大地震でした。その他豪雪や台風そして集中豪雨による水害、天災には大分痛めつけられてきた新潟です。それなのに、どうしてまたこんな目に会わされるの?
今回の地震情報に、被災地として燕市も上がっていたことから、遠方の取引先の皆さんにはご心配頂き、お電話もたくさん頂きました。中には、
「新潟続くね。何かあるんじゃないの?誰かの怨念とか。誰かが言ってたでしょうあの3人」
「あなたの言う3人は、K、Y、Tの積もりだろう。確かに中越地区の出身だけど、その時代に活躍した功労者とも言うべき人たちじゃないか。それに自分の生地と住民を痛めつけねばならない理由もなかろうに」
「そうですね。それとも彼らの犠牲になった人たちかな」と言ってすぐに
「今の冗談、冗談ですからね。とにかく被害が無くてよかったですね」
新潟地震の時は大阪におり、係りの人から地震があったことを知らされ、電話が通じないので状況が分からないが分かり次第連絡する、と言われ募る不安の中で、“せめて雨露を凌げる所さえあれば”と思ったものでした。
今回の地震が偶然月曜日でありながら、祝日で会社、工場が休業していたことがせめてもの救いでした。あの工場内の惨状をみると、もし社員の皆さんが機械に就いて作業中だったとしたら、人的被害は--------------。想像しただけでゾッとします。
機械が移動、転倒し、金型、材料、製品、半製品が散乱し、はじめて工場内を見た時はあまりの惨状で為す術も知らず、唯呆然と佇むのみだったとか。
今でも、地震が来はしないかと思うだけで背筋に寒気がはしります。被害の無い私でさえこんな状態ですから、被災地の人々の不安と恐怖は如何ばかりか察するに余りあります。
小さな地震があちこちに発生しています。大事の前ぶれなのでは? |
樋山忠明 |
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