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【卒業50年後の同級会 アメタに白そしてちょっとだけのゴマ塩達が‐‐‐】 |
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昭和34年、定時制高校卒業やがて50年というところ、気の利いた有志の立案で同級会の誘いを受けた。卒業後3回位あったように記憶しているが、私は卒業と同時に仕事の都合もあり、この地を離れたので今回が初めての参加となった。
隣町の温泉宿へ新幹線とローカル線を乗継、駅で待っていてくれた仲間の車で宿へ着いた。
勿論担任の先生はすでに他界されており、来賓無し、7,8人は居ったと思うが女性の出席も無く、老けた男23人の愛想なしの宴会?と覚悟をしてきたけれど、それが以外や以外大変な盛り上がりであった。
お互い指を指して顔を見つめながら「誰?」「kそうだろう。頭は寂しそうだが面影はある」
みんなでお互いを確認しあって懐かしさに嬌声をあげたり。肩をたたき合う者、握手をして声弾ませて叫ぶ者。
この年になると、さすがに年金組が多く、土地がら事業を行っている仲間も居り、また孫を預けられて毎日一緒に遊んでいるという孝行爺も居った。
学生時代は口を利いたことも無かった人、お互い避けていた同士も何も無い。全くそのような壁らしきものも、気づかいも無く完全にみんな一つに纏まったそんな感じの座敷であった。いろんな伝手をたどり探し当てた人達に案内状を郵送して、まとめ上げた幹事御一同には頭が下がる。
そして開会の挨拶、乾杯と進めばもう無礼講であちこちで席を立ち、相手の膳の前に座り込み弾んだ声で「お前も変わったなー。でもすぐに分かったよ」「お前だって、お互い年くったんだから変わるのも仕方ないさ」そしてビールを注ぎあう。
4年生になった春、楽しみにしていた修学旅行、確か京都、大阪、大阪港から夜船に乗りみんな雑魚寝で翌朝四国の高松へついて、栗林公園、屋島、そして金毘羅様。最後の夜は箱根だった。あの頃では宿も乗り物も金を掛けない学生旅行だけれど、巡った場所はどこも初めてそしてその後に一度も訪れたことも無い処さえある。
今でも忘れられないのは、宇治の平等院である。管理人らしき人は見当たらず、土足で上がり込んで『阿弥陀如来座像』は目の前『雲中供養菩薩像』は盗まれはしないかと心配。壁も柱も落書きだらけ。離れて池の向かいから見れば十円硬貨の裏模様。これで良いのかと心配したものだが、その後に行ったときはスリッパーに履き替えての見学、すっかりきれいになって多くの観光客で賑わっていた。
印象にのこっているのは、四国の金毘羅さまの参道階段の両脇のお土産店だ。どこも若い女性が階段を上り降りする参拝者に呼び込みを行っていた。みんな若かったからあの店この店と寄って若い店員をからかい、土産の品を沢山ぶら下げて宿へ帰った。
「帰ってからその年の秋、金毘羅さんのあの店の女の子たちに又会いに行ったんだよ。若かったから行けたんだよね」孫をみている爺が初めて明かした昔話である。 |
特別寄稿 H.S |
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