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【年寄りのぼやき旅行 新潟-3】 |
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車は高速道へ入りしばらくは高架の車窓から新潟へ向う家並や景色に目をやっていた。
やがて烏の羽を広げたようなデカイ建物が目にはいった。
「あれは何だい?」
「アルビレックス新潟、知ってます?サッカー場ですよ」
「サッカー場か。埼玉にもあるな。浦和レッド何とかと、大宮アルデーかな。気ちがいみたいなのが結構いるよ。自分は何も知らんけれど」
高速をおりて昼飯だという。何にするって聞かれても何にすればいいんだ。
「おぉ蕎麦にしよう。あの“へぎ蕎麦”ってあったじゃないか」
これぞ新潟名物のはず。この前食ったのは中越大地震の大分前だったから十年以上にはなる。
それも今日の甥っ子が河合継之助の「会見の場」があるからと小千谷市へ連れて来てくれた時、小千谷の年季の入った蕎麦屋で二人向いあって3人前食ったことがあった。量はちょっと多めと思われたがのど越しの良さが何とも言えず食ってしまった。
連れていかれた処は明るく近代的な店で、イス席とお座敷のテーブル席もあった。お座敷であぐらをかいてくつろぐ。やはりこのほうが日本人向きか。豪勢な天ぷらの盛り合わせで、海苔の掛った“へぎ蕎麦”。美味い、しかし蕎麦の色が違う。いつもは茶色、または白いものもあったが、これは濃い薄緑。聞いたらつなぎに海藻を使っているからとの事。日本海を蕎麦で食うということか。
蕎麦湯も頂いて次はどこへ連れて行かれることやら。
上越新幹線の側道を走り、連れていかれた処にあった。いやーこれは!
石台に載った見上げる高さの銅像、化粧回しですっくと立っている郷土の生んだ横綱“羽黒山”の雄姿であった。
1914年というから大正3年の生まれ、16歳で上京し新潟県人の多くがそうだったように、俗に言われる風呂やのサン助をしていて時の立浪親方に見込まれて角界いりをする。昭和9年初土俵、昭和16年、36代横綱に昇進、優勝7回、横綱在位12年、特に昭和27年36歳で最年長全勝優勝を果たした時は日本中を沸かせたものだった。
あの時の興奮はまだ忘れない。ラジオにしがみついていたものだ。
そうか、ここで羽黒山に会えるとは。
戦争を挟んで混迷の時代、自分に、否自分だけではない多くの新潟県人、日本人を励まし、勇気を与えてくれたことだったろう。
近所に「先人館」があって、これも驚いた。高さ10mの相撲やぐら、そして屋根のついた土俵がある。ちびっこの相撲大会なども催されているという。
館内へ入ると、そこにまた等身大の羽黒山の蝋人形が向えてくれる。
数々の優勝カップや賞状、それに常に愛用していたという遺品、直筆の書、化粧まわし、横綱等、自分の若き日のヒーローを偲ぶに充分だった。
羽黒山とは生まれた地名である羽黒をとったものであり、幼い頃に父を亡くし母の手一つで育てられた。早く出世して母を楽にしてあげたいと励んだものの、大関昇進の直前で母も他界してしまった。傷心の羽黒山を慰め、励まそうと村のみんなが協力し合って化粧まわしを贈ったという。
故郷の英雄であり、若き日の心の拠り所でもあった“羽黒山”に会えて予期せぬことではあったが今回の旅はここに尽きる。 |
寄稿H.H |
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