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【成るか世界遺産 富岡製糸場】 |
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ゴールデンウイ-クにドライブに誘われた。
行く先が群馬県富岡市の史跡「富岡製糸場」だったからだ。
一度は行ってみたいと思っていた所だったので連れて行ってもらう。
10時30分には着いた。さすがに見学者は多く、入場券を買って鮮やかなレンガ作りの建物の前で待っている様子。
やがてそれが分かった。時間をきめてボランテアの方が場内を案内して説明してくれるというのだ。さすがに大勢の入場者のためか、適宜案内してくれるとのことで付いていくことにする。
最初の建物の入り口、上のアーチに「明治5年」とあった。
この建物は当時の輸出の花形だった蚕糸の製造工場で、明治政府が明治3年国策として各地に広めるための指導員を養成するために作ったものだという。
当時進んだ技術を持っていたフランスの技術者と契約し、機械設備、繰糸場、繭倉庫、寄宿舎,診療所、病室、社宅、等々広大な敷地(現国指定史跡、敷地面積53,738㎡(16,255坪)
場所は、養蚕が盛んで、原料繭が確保できる。工場建設の広い土地が用意できる。外国人指導の工場建設に住民が同意。製糸に必要な水の確保。近くに燃料の石炭が採れる。等で富岡が適地であったという。
機械設備だけでなく、建物の設計まで委託し、瓦職人を集めてレンガの焼き方まで教えて作らせ、ガラスなど一部の建材はフランスから持ち込んだ物もあるという。
赤レンガ倉庫の主柱は40cm角で13mもの長大なものを数百本、それに付随する板材の数量も大変なもので種類も杉、松、檜、栗など。
近隣では調達できず、方々から筏を組んで川を利用して。とにかく当時としては大変な巨大プロジェクトであったろう。
工場としての利便性も良く設計されて物の流れがすっきりしている。
これが工場として作られたとは、日本流にいうとちょっとおかしい。何か感違いしているのでは?外観は今流にいえば美術館と言っても良いだろう。それとも当時のフランスの工場はこのような作りだったのか。丈夫で長持ちは良かった。
全国から募集したけれど一向に工女は集まらず当初の開業は遅れたが、明治5年10月に操業開始、翌6年には工女も556人となり、伝習生徒は各地へ散ってそれぞれの蚕糸工場で指導にあたることになる。
明治8年やがて伝習生徒も役割を終えたとして廃止。
明治26年 民間払い下げ、入札公売にて三井家へ。
明治35年 原富太郎、原合名会社に譲渡。
昭和14年 片倉と合併、片倉富岡製糸所として推移してきた。
昭和62年 操業停止
平成17年 国史跡に指定。片倉工業より建造物一切を富岡市に寄贈。
平成18年 国指定重要文化財となる。片倉工業との土地売買契約締結。
平成19年 「富岡製糸場と絹産業遺産群」世界遺産暫定一覧表の追加物件として選定、受理
工場設備は明治時代とは勿論違うだろうが、工場建物をいじることなく機械設備をして操業してきたことには敬意を表する。
「女工哀史」「野麦峠」と製糸工場の暗い話は以前から本や映画になって知ることも多かったが、ここではそのような話は一切聞けない。それは官営という事と、フランス人技術者による管理だったからであろうか。とにかくこの建物は工場とは言い難い。 |
寄稿S.I |
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